「ヤンキー」…といっても不良少年の事ではない。本来は南北戦争時代からのアメリカ合衆国国民・兵士の俗称だ。一方で南部国民・兵士はアメリカ連合国で「ディキシー」となる※互いに蔑称の意味も含まれている。リンカーン大統領の「人民の、人民による、人民の為の政治」演説や奴隷解放宣言もあるが、この戦争の背景は人権意識とは別に経済・産業政策であり、北部は商工業、特に産業革命に伴う工業化を目指し、南部は従来通りの綿花栽培をはじめとしたプランテーションや封建的農業経営の維持を目指した。
これにより、労働への考え方も異なる。工業化社会は時間給労働者の考え方だ。収入は労働による賃金所得が基本で、「働いた分」の換算方法は基本的に所要時間=時間給、そして日・週・月単位で考え、「働いた分だけ」収入となる。一方、農業中心社会における農場経営者(地主)らの考え方は、収入は土地及びそこからの作物という財産所得が基本で、作付後の成果は自然によるところが大きく、収入は年単位や長期間で考え、「より多くの土地・労働力を確保できたうえで、生育が順調」ならば収入となる。そして勝ったのは北部だった。
その後の工業化社会を体現した近代アメリカの最たる例は自動車「T型フォード」の生産方式だろう。従来の一台一台製作していく方式から効率的な流れ作業への転換。しかしライン工は疲弊し、代わりに給与は高い。大衆車を作る労働者自身も大衆=消費者であり、大衆車を購入できるような給与でなければならない―はずなのだが、肝心な点「高い給与」が忘れられていたら?フォードの精神・考え方は都合よく解釈・曲解されてはいないだろうか?
そして現代日本―、昨今の「働き方改革」では、「脱時間給」と「残業時間の上限規制」が進められているが、作業には必ず時間がかかる、かからない方法があるなら既に導入されているはずだ。仕事量は変わらず、かつ給与を時間で換算しない方式―となると今まで以上にせわしなく働き、給与は大して変わらない状態になりかねない。また「同一労働同一賃金」では正規雇用・非正規雇用の賃金を統一する方針だが、あらゆる労働現場において、全く同じ労働をしている従業員が複数いるのだろうか?そして企業における安定した労働力としてだけでなく、ノウハウの継承としても確保している終身・長期的な雇用と、必要に応じての調整弁としての期間雇用を同一視。さらにいえば不安定な非正規雇用の給与が低い事自体おかしい。相対的に「同一」でも、非正規雇用の給与を上げるのか、正規雇用の給与を下げるのか?「働き方改革」は誰の為の改革、誰にとっての改悪となってしまうのか?